世田谷で殺された近藤繁さんを悼む

2/1(日)、70人ほどで、「近藤繁さんを悼む会」を行いました。


 見知らぬ近藤さんに思いを馳せ、彼の死を悲しみました。
 びょうびょうと吹く風が、寒くて寒くて。殺された場所を見上げると、東名高速道路の灰色のコンクリートが冷たく見えました。近藤さんが殺された日、眠る前に最後にみた風景かもしれないと思うと、悲しくなりました。
 殺害現場に行って感じたことがもう一つあります。「容疑者を追っていた警察が15分ほど見失ったあと、近藤さんが発見された」とする新聞報道は、おかしいと思いました。見失うような場所とも思えないのです。高速道路の柱しかないようなあんな所で見失ったとは、理解しがたいのですが。その後、新聞報道では殺害が発見された時間が紆余曲折しています。真実はわかりません。
 以前、夜まわり三鷹と一緒に生活保護を申請した野宿の仲間が、アパートに入居して「久しぶりにぐっすり眠った」と言っていました。襲撃に備え、眠っていても小さな物音に気づくよう、熟睡できなったそうです。夜よりも安全な昼に眠らざるを得ない、道路よりも安全な公共施設で眠らざるを得ない。それが、「ホームレスは怠けもの」というイメージになっています。
 殺すな、の思いを再び。
 繋がりを失って路上に来た仲間が殺されないために、繋がりを取り戻す。そう感じます。私たちは、近藤さんを知りません。殺害現場のご近所の方から、近藤さんが犬をかわいがっていたことをききました。わずかですが、繋がった気がしました。近藤繁さんの名前を思い出すとき、「殺された」ということだけでは悲しすぎます。
 近藤さん、あなたの死がせめて、これ以上殺させないために結びつくことになりますように。私たちも、できることをしていきたいと思います。

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近藤繁さんを悼む会
2月1日(日)13:00〜
殺害現場(世田谷区喜多見3-1-3 東名高速道路下)

追悼文

 近藤繁さん。あなたは正月早々1月2日に殺された。報道によれば、死因は頭蓋骨骨折などによる失血死という。頭に十数カ所の傷があり後頭部が陥没していた。うつぶせ状態で発見され着衣に乱れはなかった。橋げたの横にダンボールを敷いて寝袋に入っていたそうだ。司法解剖では両手には抵抗したような傷があったという。この両手の傷は、死ぬまいと、生きようとした証である。寝込みを襲われて、凍てつく寒さをしのぐ寝袋の中から腕を出し最後まで反撃しようとしたのだろう。地面10cmから、ほぼ真上から振り下ろされる鈍器に対峙したのだろう。なんという壮絶な最期か。

 この殺害現場には、そろえた靴やポリ袋、ナップサックもあったそうだ。ここで野宿していたのだ。1.5mほどの高いフェンスで囲われている。簡単には入れない。だから近くに野宿者はいない。昨年から、道路の高架下で連続して高齢の野宿者が襲われ殺されてきた。今回も、襲撃の途中、誰も気づかず、誰も近くを通らなかったかもしれない。なぜ高架下に野宿者はいるのか――。
 この数年、野宿者の寝場所は大きく変わってきた。河川敷や都市公園など地域住民の目につく場所では撤去が繰り返されている。商店街の天井は冬季に開けられる。ベンチの屋根は取り払われる。こうして、わずかな場所を奪われた野宿者が姿を見せるのは、より深夜の時間帯になり、寝ないで夜通しさまよう姿も多くなった。孤立した寝場所か、深夜もさまようか・・・非常に限られた選択肢から選ばざるを得ないのだ。
 高架下に野宿する理由はいくつかある。1)雨をしのげる。2)他の野宿者があまりおらず、いても距離が離れる。3)地域住民が近づいてこない。しかし高架下の多くは、排気ガスによって空気が悪い場所であり、孤立している場所である。周囲の野宿者からも地域住民からも孤立している場所に、高齢の野宿者がたどり着き、定住する間もなく殺害されたのだ。

 近藤繁さん。あなたの人生が見えない。公表されているのは名前と年齢71歳だけだ。
 ご飯はどこで手に入れていたの?期限切れの弁当?アルミ缶集め?誰かにもらっていたの? どの町で生まれたの。どんな仕事をしてきたの。最後に暮らした町はどこ?この近く? いつ頃まで家にいたの。路上にでてきて10年?それとも間もない?

 私たちは怒りを隠さない。悲しみを吐露する。排除や襲撃は、人間を大切にしない社会と、生命をすり減らす冬の時代の象徴だ。襲撃・殺害に怒りと悲しみのない者の言葉が、他者に届くはずがなかろう。
 若者や子どもと野宿者とが「近い」存在になっている。世間から価値なき者として扱われ、居場所なく空間的に追われ、心理状態も含め「近い」存在になっている。そしてささいなことで「やりあう関係」になってしまうことも、継続しエスカレートした襲撃が人を「死」に至らしめることもある。
 1人ひとりの生と死の具体性が世の中を人間の体温の伝わる社会に変えてゆく。破壊されてきた喜・怒・哀・楽や、人間相互の関係の復権を。その先に、若者、子ども、教育・福祉関係者、おとな・・・1人1人が野宿者問題と向き合う時空が拓かれる。
 私たちは自分たちの主張を強要しない。正解を提示しない。そもそも正解はないのだ。ここに集まったすべての人が、地域や職場で悩みながら話すこと。その試行錯誤の時空を共有すること。うまく説明できなくてもいい、言葉にならなくてもいい、しかし決して目の前の「事件」から決して逃げない姿は、若者や子たちに記憶となるだろう。

 記憶は武器である。そして記憶は執念となる。
 近藤繁さんを殺した状況よ、私たちはこのことを風化させない。胸に刻み続ける。
 近藤繁さん、あなたを追悼するこの日から、私にできるか考え何かを生みだしたい。
 正解はない。ここに集まったすべての人が、地域や職場で悩みながら話すこと。その試行錯誤の時空を共有すること。うまく説明できなくてもいい、言葉にならなくてもいい、しかし、目の前の「事件」から決して逃げない姿は、若者や子どもたちに何かを伝えるにちがいない。1人の生きてきた歴史と、痛ましく壮絶な死の記憶を、世の中の人間の体温の伝わる社会に変えてゆく一歩としたい。


「近藤繁さんを悼む会」実行委員会
三多摩野宿者人権ネットワーク(立川)  三多摩自由労働者組合  渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合  1/13万の会  東村山・たまごの会  府中市民有志  夜まわり三鷹  川崎水曜パトロールの会

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 野宿になる時、人は過去を隠す。孤立してそっと去る。野宿者に出会い、固有の人生を知るためには、路上への訪問が継続的に必要になる。しかし公的な巡回相談事業は、野宿者の人生によりそうよりも公共空間からの排除を優先させる傾向が強い。近藤繁さんの人生が見えないのは、野宿場所を定着できなかったことと、路上訪問が届かなかったことによる。ここに集まった私たちの中で思いを持ったものが、できることから何かを始めたいと思います。